ジルさんと乃木坂46のふわふわな日々

日々の乃木坂活動のメモ書き。乃木坂46を追想します。推し箱はアンダー。推しメンの名前を私はまだ知らない…。

失われるもの、持たざる者 乃木坂46の第59回レコード大賞受賞について

こんにちわ。ジルを名乗るジルと申します。今回は少しだけまじめに書きます。

 

2017年12月30日。乃木坂46が第59回レコード大賞を受賞した。ここで私は昨今のレコード大賞の権威性などについて語るつもりはないが、レコード大賞に選ばれるということは、完全にメジャーであると認められたと同時に、一つの頂点に上りつめたということを意味するように思う。

ところで、ついこの頃に乃木坂46を卒業する中元さんは、アイドルの一番の売りとは、アイドルとしての姿勢であると述べていた。生身の人間としての生き様に、自身の素のキャラクターを重ねて演出するのがアイドルというわけであろう。

 

レコード大賞の話に戻るが、レコード大賞というものは先にも述べたようにメジャーなものの一つの象徴であり、音楽界の権威であることは疑いようもない。そこで振舞われるべきアーティストとしてのアイドルの姿勢とは何であろうかと考えてみる時に、それはショーであるのだと私は考えた。そのことは、ショーであるということは、一つの独占的な他者への問いかけなのである。いわば、他者を正常的に支配できる空間がショーなのである。

正直に話せば、最近流行りの荻野目洋子さんのダンシングヒーローを踊る女子高校生のパフォーマンスはプロのショーのように見えるがどうだろうか。私はアイドルとは本来はこういうものではないかと思うのだが、何もダンスが上手いとか、歌が上手いとかそういうこともあるのだが、そこでパフォーマンスする女子高生の姿勢はプロであるように感じた。

ここで、レコード会社に所属するアーティストである乃木坂46欅坂46AKB48のパフォーマンスを振り返ってみよう。果たしてそれはショーであったのだろうか、プロであったのだろうか。アイドルとはプロの人間であるように定義すると、アイドルとはプロの女性であり、それは性的なフェティシズムを感じさせるものではあるが、性的なアピールなどはない、人間としてのプロであるとみる。

さて、アイドルがプロであることを強調しておくと、ほとんど必然的に、素の、普通の状態こそが至高であるかのような意見が出てくるだろう。しかし。テレビプログラムなどにおけるショーで見られるアイドルの姿は、それ自体が虚構に満ちているわけではないまでも、あまりにも不自然である。不自然であれどもそのこと自体は自然である。

アイドルとは作られた存在であり、プロである。そうだとすれば、素であろうとすることには何の意味があるのだろうか、そんな疑問が常に頭の中をよぎってくるが答えはまだない。

 

ここまでレコード大賞という場における振る舞いから、つらつらとアイドルについてみてきたわけだが、もし仮にアイドルの願いがかなうことがあれば、彼女たちはどこへ行こうとするのだろうか、どこへ向かおうとするのだろうか。

私が端的に一つだけ述べるとしたら、彼女たちは笑いながら遠く遠くへと消えてしまうのだろう。だって一人の人間であり女性なのだから。

 

おらちゃん「おら分かった。要するに、満ち足りないからアイドルしてんだな」

おらちゃん「手の届かない栄光、青春、欲望、そういうものを追い続けてるんだ」

おらちゃん「夢なんかないほうが良い。願いなんて見つからなくても良い」

おらちゃん「おらは毎日生きてるんだ。意味も分からず前に生きてるんだ」

 

ジルさん「おらちゃん、人は満足したら、人でなくなるんだよ」

ジルさん「そして自分が自分であることを忘れて、また同じことが始まるんだ」

 

おらはこの世界のからくりに気がついた。感情というのはわがままだ、頂点にたった時にしか、得られないものがあるとしたら、それは失望だ。世界への、自分への。

 

もらえるものはもらう、そんなわがままなジルさんより

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