ジルさんと乃木坂46のふわふわな日々

日々の乃木坂活動のメモ書き。乃木坂46を追想します。推し箱はアンダー。推しメンの名前を私はまだ知らない…。

羨望のエクリチュール 乃木坂46アンダーライブ九州シリーズ 鹿児島公演の感想

 こんばんわ。今回は2017アンダーライブ鹿児島公演の感想を書きたいと思います。タイトルのエクリチュールとは、ここでは表現の形式だとか表現の技法みたいな感じの意味です。

 

さて、「自由の彼方」から始まり「希望の光」で終わる今回のアンダーライブですが、一言で述べれば、疾走感よりも痛烈さよりも爽快感がありましたね。何かが始まりそうな、そんなプロローグ的な公演でした。座長の樋口さんも、この公演はプロローグ的であることを発言していましたね。

 そんな伝説的…ではないにしろ、まさしく最後には希望が見えてくるような九州シリーズ。全7公演の中での6公演目たる鹿児島公演を急ぎ足で振り返ります。

 

まず初めに私が思ったのは、乃木坂ちゃんって小さい。ちっさ、うわ…ちいせえ。ちっちゃ。まじでちいせえ。ちっちぇえええええええ。うひょおおおお。うひょおおおおおお。ことこおおおおお。

はい、最後は叫んでしまったわけですが、本当に乃木坂ちゃんは思ったよりも想像以上に小さかったです。存在がとか、振る舞いがとかではなく、ただ単に縮尺が小さい。小さくて可愛い。

 

ところで、本題に戻りますが、オープニングではなにやらオリジナル要素があったようで、暗黙の中でしっとりとした様相のダンスが始まります。そして次に乃木坂ちゃんが全員で現れて「自由の彼方」を披露するわけです。

そんな最初のシーンを私は見ていました。確かに私は観客として見ていました。観客というのは元来は舞台の演出装置の一つであった向きもあるのかもしれませんが、現代では受容者としてのいわば置物にすぎませんよね。観客という固定された枠組み、鳥かごのようなイメージの空間で、鳥たちが羽ばたいていくのを見つめます。

するといつのまにかあることに気がつきます。もしかして我々ファンが飛び立つことを期待されていて、彼女自身らがそれを見守り支える鳥かご側になっているのだと。それは意図したものでもあるのだと思いますが、彼女らの立ち位置、すなわちアンダーであるという状況が、より彼女たちに対する見方を固定的な枠組みへと追いやるように見えました。

そこで私たち観客は思い思いの気持ちを叫びます。高らかに、明らかに、すこぶる様態で、気高く、物々しく、仰々しいまでの眼差しで。私たちは彼女たちを見ているにすぎない鳥かごのような空間の一部であるはずでしたが、全体が全体として、澄み渡る空のように一体的な熱量を形成していました。

 

ああ、これがライブ、特にアンダーライブなんだなぁ。

 

そう思った瞬間でもありました。

私たちは、鳥たちのように飛び立っていった。どこへ行ったかって?それは遠い遠い世界へと没入、いや逃げたことだって言うかもしれません。だって現実的には現実を見ずに仮想空間にも似た熱気と一体感を楽しんでいるのですから。それにしても、乃木坂アンダーが、ライブで歌って踊って羽ばたいて飛び立つことが逃げることになるのか?それがこの曲で語られる「自由の彼方」であるのだろうか?

仮にそうだとしたら、そういう解釈を与える不届きものに言いたい。

 

君の劣等感を拒絶する。自由なるものは我々だ。私が、ここにいる自由だ。

 

そして高らかに宣言しておこう。歌詞から引用して宣言しよう。

 

いくら彼女らが、私たちがここで、この時、この場で言葉(思い)を投げかけても、空の鳥には聞こえないね。

アンダーライブ。いつか見た景色も、ここから見える景色も、多くのファンや多くの関係者に支えられて、ささやかな夢と今を感じている。

 

ここで言う空の鳥とは、自由の彼方にあるものの象徴なのか。はたまた、それは地に足のついた私たちから見える、去っていくべきもののイメージなのか。答えは皆さんの想像に任せますが、さてさて、ようやく始まったかに見えたアンダーライブ、殺伐とした雰囲気で続くのかと思いきや楽しい一面もあったので、簡単に紹介しますね。

 

MCパート

三期生の大園桃子ちゃんにボイスメッセージを送ったという二期生の伊藤純奈ちゃん、帰ってきた返信が、「いま乃木坂工事中の収録中だよー」とのこと。一期の斉藤優里ちゃんはそんな三期生ばかりにかまけてる純奈ちゃんに嫉妬。

⇒アンダーはライブで、三期生のエースはテレビ収録ですが微笑ましい話です。

 

一期生の齊藤ちはるちゃんが、鹿児島弁で挨拶しようとするも度忘れ。思い出そうにも思い出せないちはるちゃん…。

⇒か、かわいかー

 

二期生の伊藤かりんちゃんが、同じく二期生の北野日奈子ちゃんを諦めない的な熱いエール、もしかしてここで日奈子ちゃんは卒業発表なのかと会場はどよめき焦り立つもその後しばらくして日奈子ちゃんは復活。

⇒おれの、おれのおれのひなこー

 

今回はお休み気味の一期生アンダー筆頭格のひめたん

⇒ひめたーん、ぶーーーーむ!!ひめたんは永遠やでええええ

 

一期のマスコット的存在である和田まあやちゃんとまあやのお母さんの話。まあや母「むすめをこんなに早く手放すつもりはなかった」それを受けてまあやは皆さんにありがとう。ありがとう的なありがとうを。

⇒超絶可愛いまあやー!!

 

北野日奈子の復活と独白。日奈子曰く世界にやさしさを、人にやさしさを、モノにもやさしさを、上を見ても下を見てもやさしさにもやさしさを、やさしさを横から見るか?下から見るか?やさしさは世界を…、とにかくやさしさ、やさしさがアンダーを生んだが、アンダーはやさしすぎるが、やはりこの世界はやさしさで出来ているとかなんとか…。

⇒やさしい気持ちっていいよね。北野さんが喋っているときに誰一人として何も言わなかったのも良い。

 

まあやが指摘する、一期生で座長のひなちまはプレッシャーを感じている的な話。ひな「そんなこといわないのー」

⇒ひなだって、言いたいこと沢山あるよね…。

 

いかがですか?こうしたMCパートも生ライブの醍醐味であり楽しみですよね。合間合間にあるメンバーのわいわいしたトークには非常に癒されました。

 

それでは、次にこのライブの全体的な演出面について見てみます。

今回の鹿児島アンダラでは、舞台の横にぽつんと左右に2つの光のガーベラが置かれていました。そしてリアルなメンバーのストーリーとは別種の、舞台ならではの独白、そして表現の数々、いわば劇中劇が我々の前へと現れます。それは今の、というよりもこれまでのアンダーを象徴するかのような、なんとも切ない演出で、まるでマッチ売りの少女であるかのように物悲しく作られていました。

私が思ったのは、リアルなメンバーたちの思いからなるストーリーと、こうしてガーベラシーンの劇のように作られた形での舞台演出としてのストーリーが交錯していたことで、リアルと仮想の境が曖昧になっているということです。

この曖昧さというのは良い意味で私たちを一種の異世界と言うか別の空間へと導いてくれます。そこにいるはずの、マッチ売りの少女のような存在にすぎなかったアンダーメンバーが、くるみ割り人形のように立ち尽くしている私たちファンとの思いの交錯を経て、手が届きそうな身近な女の子たちから、我々の手の届かないどこかへと昇華されたように感じました。

メンバーの中にはアンダーという立ち位置であることに対して熱く語ってくれたり、休んでしまったことからへの復活について思いのたけを披露してくれたり、そうしたリアルな部分がアンダーライブの最大の魅力ではありますが、演出家によってつくられたであろうアンダーの演出劇を見ていると、正直なところこちらのほうが良い。

リアルな思いも大事だが、私たちファンはアイドルの人生をも応援している向きはあるが、やはりプロの興行であるから、劇中の劇に、演出の中に、自分の思いなりストーリーを重ね合わせるなり、リンクさせたほうが、より見栄えが良いですし、ステージとしての緊張感、協奏感、つまりシンフォリックな一体感も出るのではないかと思いました。

いずれにしても、メンバーたちのステージにかける熱意、力動が十分に見られたわけでとても満足のいく内容ではありました。

 

最後に、このライブのキーである「僕たちの光」の一節を見ながら終わりたいと思います。

 

太陽眺める度羨ましくなるんだ

どんな時もまぶしく輝き続けること

僕には背丈ほどの影しか作れなくて

 

このあとは世界には何たらと続くのですが、私たちが、また彼女たちが、アンダラで手に入れたもの、手に入れたかった何かはこの歌詞にヒントがある気がします。

 私たちは彼女たちを確かに見ていた。そう、ずっと見ていたんです…。

 

おらちゃん「おらは知ってるよ」

おらちゃん「ジルさんは途中なんでここにいるんだろうって表情をしていたこと」

おらちゃん「でもメンバーがたまたま手を振ってくれて」

ジルさん「ああ、トロッコに載っていたメンバーと目が合った気もしたよ」

 

その時笑っていたんだ、彼女は私のほうをみて微笑んでいたんだ…。

 

おらちゃん「それではお聞きください」

 

ひと夏の長さより・・・

 

10月の桜島・・・海辺から眺めながらジルさんは家路についた。