ジルさんと乃木坂46のふわふわな日々

日々の乃木坂活動のメモ書き。乃木坂46を追想します。推し箱はアンダー。推しメンの名前を私はまだ知らない…。

ジルさんと乃木坂46な日々 vol5

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本日9月18日は、Mステスーパーライブがありました。我らが乃木坂46は横浜での個別握手会の途中に特設ステージで「インフルセンサー」をパフォーマンスすることになります。

一方の私はというと、休日ですから13時くらいに起きました。ふいにテレビをつけると乃木坂ちゃんが映ってる状態で、何がなにやら訳も分からぬまま生パフォーマンスを視聴するわけです。

 

以下は隣で見ていたおらちゃんとの回想になります。

 

おらちゃん「ジルさんがいつも言っている一回性のオーラとかいうものによれば今回のステージはどのような意味をもつんですか?」

 

※ここでは、一回性のオーラとは、複製技術を基礎とする芸術様式(写真や映画など)において、オリジナルの作品から消失する「いま、ここ」に「ある」ことを根拠とする権威的な力動と定義します。

 

ジルさん「そうだねえ。例えば日頃のとあるさゆりんがいたとするでしょう?」

 

おらちゃん「さゆりんはいつもさゆりんだし可愛いよね」

 

ジルさん「でも今日のさゆりん、今日だけの特別なさゆりんだっているでしょう?」

 

おらちゃん「???今日のさゆりんだって日々の中のさゆりんだよ」

 

ジルさん「でもね、今日のさゆりんをいくら記録したとしても、記憶したとしても、今日のさゆりんというものは、一回限りの、質的にはどの時点においてでも異なるさゆりんなんだよ」

 

おらちゃん「おら難しくてわかんね。量的にはさゆりんはいつもさゆりんはさゆりんだもん」

 

おらちゃんは頭が混乱して自分の部屋へと戻っていった。

 

ここで少しだけ考えるとすれば、その作品の一回限りの性質というものは本来は自然的に存在したものではないだろうか?だとすれば繰り返し複製することでその価値は相対的に目減りすることにはなるだろうし、作品とは根本的に何かの複製であることになる。

 

はて、そうは言っても今日の「インフルエンサー」生パフォーマンスは、ステージが横浜の日常風景の一コマだ。仮に複製されているのがステージとなる世界の方だとすれば、作品を発表してパフォーマンスをする乃木坂のメンバーは流動的であれ実存的にであれ常に一定の存在となる。

それは没個性化しない芸術的自我を持つかのように、複製される世界に対して一定の距離を保ちえているがために、ほかの存在からは届かないものとなっている。

 

それが乃木坂46なのである。

それが実は世界が複製可能であることの実存なのである。

 

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世界は美しい。だからかなのか、もしくはそうした世界の意思とは無関係になのか、いずれにしても我々は根源的には生きることを拒絶している。それは死というものが概念のレベルから物理的な実体のレベルから存在し作動していることからも明らかだ。

 

泥臭くても、笑われようとも生き抜くことが求められている世界で。

 

やはり君は美しい。世界は美しい。命は美しい。

 

追記

私、ジルはついにウェブショップでライブグッズを注文しました。買ったものは、とあるメンバーのマフラータオル一つ。夏の全国ツアーの黒Tシャツ。そして乃木坂専用のペンライトである。

総計は1万2000円で10月末から11月5日までには届くとのことでした。非常に楽しみに待ちながら今日も同じような日々を過ごします。

 

参考 複製技術時代の芸術 W・ベンヤミン