ジルさんと乃木坂46のふわふわな日々

日々の乃木坂活動のメモ書き。乃木坂46を追想します。推し箱はアンダー。推しメンの名前を私はまだ知らない…。

約束の花束をひめたんに届けよう

今回は、元乃木坂46のメンバーである、中元日芽香さんのとあるアンダーセンター曲について見てみたいと思います。また、本来ならば、中元さんは乃木坂46の7枚目アンダー曲「初恋の人を今でも」のセンターであるべきではなかったかということに関しても触れたいと思います。

 

乃木坂46 『君は僕と会わない方がよかったのかな』予告編 - YouTube

さて、中元さんの代表的なセンター曲はいくつかありますが、私はこれを「君は僕と会わない方がよかったのかな」であるとします。この楽曲は題名の通り、ある女の子の過去の恋愛を振り返るような曲となっているわけですが、中元さんが卒業したいま、改めて中元さんが作品に込めたような思い(厳密には制作者が中元さんに託した思いということになるのでしょうか)を考えてみることは、これからの、そして、これまでの乃木坂46を考えていくうえで一つの基準点となるように思います。それは誰よりもアイドルであろうとした中元さんが、そして中元さん目線で過去を振り返ることは、乃木坂46全体のアイドル性について考えるうえでの一つの目安であるように見えるからです。アイドルとはアイドルを卒業してもアイドルたりえるのか、アイドルを卒業した後に振り返るアイドル時代とはどのようなものか、そうしたテーマがここには隠れているような気さえします。

では実際に、「君僕」の歌詞を見ていきたいと思います。印象的なのは二つ。僕(僕たち)の心情が描かれているところと、その僕の回想です。

 

僕たちはどこかで求め合ったのに、気づかぬふりをしてやり過ごした

それがやさしさだと勝手に思い込んで、少しずつ距離ができてた

(中略)

僕よりもっと大人の誰かと恋をしていたら今頃

あのカフェの恋人たち楽しそうで一人きりがやるせない

 

見たまんまなわけですが、すれちがいが切ない印象ですよね。このテーマを中元さんが表現する意味はあるようでないような気もするんですが、それでも、彼女が卒業した時点から見て振り返ってみることにします。まず、わたし個人が、というより、おおよその乃木坂ファンが感じる中元さんの活動とはなんであろうか。中元さんと言えば、長らくアンダーから選抜に上がれず、一時は不貞腐れたようでその諦めない振る舞いがファンの心を動かしていました。そんな当時の熱意、情動、努力していたであろう何かも、やがて選抜に定着するようになると失われていったかに見えます。そこでもう一度「君僕」の歌詞を見てましょう。中元さん目線で考えるとして、あの苦しかったアンダーの日々に戻りたいですか?悲劇が起こるときのその登場人物とは最後にはとても成功するか(想定とは違う方向で)、あるいはすでに成功している人が崩れ落ちていくパターンが通常だと思います。それはそれが劇であるからとしか言いようがないのですが、長らく苦しいアンダー生活を、乃木坂46の悲劇として捉えるならば、その先に待っていた未来とは明るいものであって欲しいわけです。

 

ところが!

 

中元さんの卒業は体調不良から半ば夢を投げたしたようなものしか見えません。本人には何か考えるところはあるのかもしれませんが、やはりどこか煮え切らない形での卒業であったように思います。こうした状況で、中元さん目線でアイドル時代の活動を振り返ってもそこには、後悔の念しか残らないように見えます。アイドルとは悲劇的であるのだから、そこに後悔はつきものかもしれません、誰だってあの時にこうしていれば、もっと頑張っていれば、違う未来はあると言えるのですが、過去は変えられない。過去というものは厳密的に変えられないんです。

だから、私たちは未来へと生きているわけですし、そんな人々の思いとは関係なしに未来へと進んでいる面もあるのですが、変えられない過去を思い浮かべて日々を過ごすよりは、変わりゆく未来を感じ入りながら日々を楽しんだ方が健全でしょう。しかし、変わらないものが過去、変わりゆくものが未来だとしたら、神様というものが存在するとして、実に残酷だとは思わないだろうか。(※ここでは過去ー現在ー未来を1秒レベルの単位ではなくて、1年間くらいのスパンでとらえています)

だって、そうなると殆どの物事というのはそうするしかないことだらけになります。時間の流れを大きくとらえれば、自分がやるべきことというのは非常によく見えてきます。我々は流されているようでも、何かに流されていたとしても、そのようにしているんではなくて、考えに考えた結果であっても、特に考えていなくても、そうするしかない、そんな状況に神様の気分?のようなものによって追いやられていると言えるわけです。それは、自分の人生における自分の立ち位置を考えるうえで、どの部分が過去で、どの部分の視点から、変わりゆく未来へと向かっているのか、過去と考えられるような時点からはおおよそ想定が困難であることから生じる現況になるでしょう。

そこで、見方を変えてみると、変わりゆく未来を考え、変わらない過去を後悔するのが現代における人間の通常の姿であるならば、過去は厳密に変えられないとして、よき思い出としての過去を振り返りながら、変わらない未来=成功が約束されたような自分の未来を突き進めばいいわけです。しかし人間には未来は見えない。見えない未来が見えるようになるにはどうしたら良いか、なんてことには答えはでないわけですが、良き思い出のようなものを基盤として、悲劇のストーリーを進行しているかのような者の人生を考えてみれば良いのかもしれません。ここで冒頭に紹介したように「初恋の人を今でも」のセンターが中元さんであると想定してみましょう。そうすることで、成功が確約された未来へ進んでいくこととはどのようなものなのか、多少なりとも見えてくるのかもしれません…。

 

乃木坂46 『初恋の人を今でも』Short Ver. - YouTube

 

あれから3年…過ぎたけれども、夢は叶いましたか?誰かにそう問うてみたいものの、そこには誰もいなかった…。

 

おらちゃん「なーにジルさんは人生語っちゃってんだ」

おらちゃん「おらが聞きたかった話はこんなんじゃない、ジルさんが思う恋愛論、コミュニケーション論みたいなのが聞きたかったんだ」

おらちゃん「人生なんてなるようにしかならない。なにか分類して考えてみても、人生は初めからあるようにしかないんだ。だって自分は自分で生まれてきたわけじゃないんだ。だれかから呼ばれたかのように生まれてきたんだ。だからこれは人生という名の存在にとっての人生を読み解きながら生きているようなものなんだ」

おらちゃん「自分の人生はみんなの人生だし、みんなの人生が自分の人生なんだ。世界は一つ、世界は一つに向かっていくんだよ」

 

ジルさん「おらちゃん、この世界は夢なんだって言いたいような気もするけどね、この世界はいつだって明日終わってしまうかもしれないような、いま当たり前のことが次も、明日も、来年も、未来までずっと続くなんて限らないんだ」

ジルさん「だから、いつ終わりが来てもいいように、そのために準備だけしておこうとは思わんのかね?一体、世界はどこへ行こうかなんてどうでも良くて、この世界は、この世界に住む人々はいつか死ぬんだ。だから終わりが来るんだ」

 

おらちゃん「おらも分かったよ。ようやくわかったよ。やっぱりサヨナラの意味なんだね…いつまでも一緒にいたいけど、終わりはやってくるんだね…」

 

おらちゃん「サヨナラ、サヨナラ、ありがとう、ありがとうジルさん、おらは…おらは…」

 

そう言いながらおらちゃんは冷蔵庫へと向かっていった。おそらく私が隠しておいて秘密のプリンを食べてしまうのだろう。でもそれは予測されたことなのだ。だってジルさんはいつもおらちゃんの豚の貯金箱から500円ずつを抜き取ってプリンを買ってきているのだから…。

 

4月からは小説を書きたいジルさんより

乃木坂のこれから

2018年、乃木坂46は絶好調。この勢いはあと数年続くのだろうと私は見ています。

 

さて、今日は不思議なお話をしたいと思います。

 

現在は、2018年2月6日。私はむかしある小さな女の子と出会った。それは5月5日の天気の良い日のことだった。なぜ5月5日ということだけ覚えているのかは不明だ。ところで2と6、そして5と5をじっーと眺めてみると、私はなぜだか9という数字を思い浮かべるのです。この9という数字が意味するところは、感覚的にしか分かりません。しかしながらこの9というワードを基にして、現在の2018年2月6日を紐解いてみます。ここは2000年代ですからそこは動きませんよね。2018年から9年を引いてみると2009年になりますが被ってる感じがするので9の約数である3を足してみますと2012年になります。2012年と9年という数字は何を意味するのかは分かりませんが、乃木坂46は2012年2月22日にスタートしたように記憶しています。さらに2月から9か月後の11月、そして6日から9日後の15日、それぞれ9を足して考えてみると、2012年11月15日という日時が浮き上がってきます。そこでGoogle検索で2012年11月15日について調べてみましょう。乃木坂46に関連してることが良いですから乃木坂46と追加します。

 

すると、メンバーである秋元真夏さんのブログがヒットしました。

2012年11月15日のアーカイブ|乃木坂46 秋元真夏 公式ブログ

 

そこでは真夏ちゃんが、ただいまとあいさつしていて、海外へ撮影へ行ったことを報告しています。そして笑うとえくぼができるということをセーラー服姿の写メと一緒に報告してくれているのでした。これは発見ですよね。

 

それで、いったい何を発見したのでしょう?私は5年近く経過しておかえりを言えば良いのでしょうか…。

 

真夏、、、おかえり、、、。

 

う、うーん、そうですねえ。ひょんなことから2018年2月6日という今が気になり、2012年11月15日へとワープしましたが、これは始まりに過ぎないのでしょう。

 

そこで2012年5月10日を乃木坂46で調べてみることにします。結果は、、、聞くまでもないでしょう。私は今を生きる。私は前を進む、こうしてアーカイブを思い出すことで何か得られることはあるかもしれませんが、私は今この瞬間を楽しんでいるんです。

 

それでは、ごきげんよう。また逢う日まで。

 

おらちゃん「ジルさん、ジルさん、おらは2と6を見たら足して8で2で割って4で6を賭けて24になるよ!!」

おらちゃん「24といえば一日の時間は24時間だ。そしてこれはエジプトの古代の人が発見したんだって」

おらちゃん「それでおらが一番好きな時間は12時だから、おなかが空いたらご飯を食べる時間なんだ」

 

ジルさん「おら知ってるか、死神はりんごを食べない、しかし私は死神などではないから、蜜柑をも食べる」

 

おらちゃん「おらバナナは食べないよ。おら良い子だから。撫でて撫でて」

 

ジルさん「なぜ、そこでバナナを連想したんだ…いや、この場合当たり前か。つまりリンゴに蜜柑にバナナ、これでは3時のおやつだ、、」

 

ココアはやっぱり森永、夜のテンションは低いジルさんの覚書

失われるもの、持たざる者 乃木坂46の第59回レコード大賞受賞について

こんにちわ。ジルを名乗るジルと申します。今回は少しだけまじめに書きます。

 

2017年12月30日。乃木坂46が第59回レコード大賞を受賞した。ここで私は昨今のレコード大賞の権威性などについて語るつもりはないが、レコード大賞に選ばれるということは、完全にメジャーであると認められたと同時に、一つの頂点に上りつめたということを意味するように思う。

ところで、ついこの頃に乃木坂46を卒業する中元さんは、アイドルの一番の売りとは、アイドルとしての姿勢であると述べていた。生身の人間としての生き様に、自身の素のキャラクターを重ねて演出するのがアイドルというわけであろう。

 

レコード大賞の話に戻るが、レコード大賞というものは先にも述べたようにメジャーなものの一つの象徴であり、音楽界の権威であることは疑いようもない。そこで振舞われるべきアーティストとしてのアイドルの姿勢とは何であろうかと考えてみる時に、それはショーであるのだと私は考えた。そのことは、ショーであるということは、一つの独占的な他者への問いかけなのである。いわば、他者を正常的に支配できる空間がショーなのである。

正直に話せば、最近流行りの荻野目洋子さんのダンシングヒーローを踊る女子高校生のパフォーマンスはプロのショーのように見えるがどうだろうか。私はアイドルとは本来はこういうものではないかと思うのだが、何もダンスが上手いとか、歌が上手いとかそういうこともあるのだが、そこでパフォーマンスする女子高生の姿勢はプロであるように感じた。

ここで、レコード会社に所属するアーティストである乃木坂46欅坂46AKB48のパフォーマンスを振り返ってみよう。果たしてそれはショーであったのだろうか、プロであったのだろうか。アイドルとはプロの人間であるように定義すると、アイドルとはプロの女性であり、それは性的なフェティシズムを感じさせるものではあるが、性的なアピールなどはない、人間としてのプロであるとみる。

さて、アイドルがプロであることを強調しておくと、ほとんど必然的に、素の、普通の状態こそが至高であるかのような意見が出てくるだろう。しかし。テレビプログラムなどにおけるショーで見られるアイドルの姿は、それ自体が虚構に満ちているわけではないまでも、あまりにも不自然である。不自然であれどもそのこと自体は自然である。

アイドルとは作られた存在であり、プロである。そうだとすれば、素であろうとすることには何の意味があるのだろうか、そんな疑問が常に頭の中をよぎってくるが答えはまだない。

 

ここまでレコード大賞という場における振る舞いから、つらつらとアイドルについてみてきたわけだが、もし仮にアイドルの願いがかなうことがあれば、彼女たちはどこへ行こうとするのだろうか、どこへ向かおうとするのだろうか。

私が端的に一つだけ述べるとしたら、彼女たちは笑いながら遠く遠くへと消えてしまうのだろう。だって一人の人間であり女性なのだから。

 

おらちゃん「おら分かった。要するに、満ち足りないからアイドルしてんだな」

おらちゃん「手の届かない栄光、青春、欲望、そういうものを追い続けてるんだ」

おらちゃん「夢なんかないほうが良い。願いなんて見つからなくても良い」

おらちゃん「おらは毎日生きてるんだ。意味も分からず前に生きてるんだ」

 

ジルさん「おらちゃん、人は満足したら、人でなくなるんだよ」

ジルさん「そして自分が自分であることを忘れて、また同じことが始まるんだ」

 

おらはこの世界のからくりに気がついた。感情というのはわがままだ、頂点にたった時にしか、得られないものがあるとしたら、それは失望だ。世界への、自分への。

 

もらえるものはもらう、そんなわがままなジルさんより

乃木坂46アンダーライブ 兵庫・神戸公演のレポート

 

はい。今回は、12月15日に行われた神戸でのアンダラに行ってまいりましたので報告します。会場は三宮駅から歩いて3分くらいの場所にある神戸国際会館こくさいホールです。この会場は非常に綺麗で席も見やすくて臨場感がありましたね。私は1階席の20列付近で見たのですが、顔は判別できないまでも舞台上のメンバーの動きが非常によく見えました。なお、私の周りには双眼鏡を持ってきている人がちらほらいたので、小さな箱でも双眼鏡を持っていった方がより楽しめるのでしょう。

 

さて、今回のアンダラですが、前回までのシリーズと大幅に変わっていましたね。ここでは大きくわけて二つのポイントについて見ていきたいと思います。

 

まず一つには、これまでのアンダラ特有の悲壮感がなくなり、ファンもメンバーも「楽しむ」ことがテーマとなっていたことです。今回のセットリストは明るいアップテンポな曲が多く選ばれたように思われ、アンダーの思いを歌うとか伝えるといった要素は控えめでした。また、ライブ中のMCにミュージカル調の演出が加わったり、ファンとの触れ合いを重視していたり、楽しむということが非常に意識されていました。

このように来て見て楽しめるアンダーライブというのも悪くありません。個人的な理想を言えば、当日、乃木坂46がライブをやると初めて知って、急きょチケットを買い(現状はすべて事前に売り切れですが…)、曲やメンバーなど何もわからぬままその場の雰囲気を楽しみ、そのことをきっかけとして乃木坂46にハマっていく…そんなようなお客さんが増えたら面白いとは思います。この楽しむというテーマは、今後の乃木坂アンダラの一つのバリエーションとなっていくような気もしました。

 

もう一つには、ファンとの一体感を重視し、ファンとメンバーが一緒にライブを体験できるつくりとなっていたことです。通常ならば、ファンはサイリウムを振りながらコールとレスポンスを繰り返すだけなのですが、今回はメンバーからの煽りのコールがかなりあったり、さらにはMC部分ではメンバーとファンとのコミュニケーションが増えました。一例として神戸公演では、ろってぃーコールをファンの誰が長く言い続けられるかということをやったりしました。結局は言いなおす人がいたので優勝?は決まらなかったのですがなかなか面白い余興です。

また、「13日の金曜日」の一部の振り付けをメンバーの樋口日菜ちゃんがレクチャーしてくれて、みんなで一緒に踊るシーンもありました。今回は特にこうしてメンバーがファンと一緒に体験するということが重視されていたように見えます。こうした状況を見て、いずれは抽選で選ばれたファンがステージ上で「制服のマネキン」なんかを一緒に踊るなんてことがあったら面白いのではないかと思いました。

 

ここまで見てきたように、今回の近畿・四国シリーズからはアンダーライブが大胆に変化しています。もちろん、今まで継承してきたアンダーライブのストーリーの雰囲気は受け継がれていますし、悲壮感がなくなったとは言っても、心にグッとくるような切ない演出は数々あります。

アンダーライブは、そもそもは控えのメンバーのガス抜き的なものとして始まった経緯は否めないにしても、いまや興行として見張るべきものがある一種のストーリーとしてその地位を確立しています。今後も様々な取り組みがあるかと思いますが、これからの興行としてのアンダーライブに大いに期待するとして、今回のレポートを終わりにします。

 

おらちゃん「ねえねえ、ジルさん、ジルさん」

 

おらちゃん「寺田蘭世ちゃんがジルさんに投げキッスをしてくれていたよ?!」

 

ジルさん「そうだねえ。だから私は微笑んだんだ」

 

ジルさん「思わず顔がにやついてしまったんだ…」

 

おらちゃん「(たぶん…周りの人も同じように思ってるんだろうな…)」

 

会場から自宅まで1時間もかからないライブは最高だと思うジルさんより

ジルさんの乃木坂46な日々 vol10

 

さて、日々の乃木坂活動を記していくと宣言したわけですが、私は意外なほどに乃木坂46を見ていないことに気がつきました。録画をするなどして、好きな時に動画を見て、好きな時に音楽を聞き、そんなパターンが多かったので、テレビ番組やラジオをライブでみたり聞いたりすることはあまり多くはありません。ですが今回の有線大賞はライブで見てみることにしました。有線大賞での乃木坂ちゃんはインフルエンサーで登場。欅坂、乃木坂、AKBと3グループ連続でのアイドル登場となりました。

 

私がこの番組で印象的だったことを2点、少し書いておきます。

 

まず一つは、演歌歌手のなんとかさんが私はアイドルを10年やったあとに転身したんだと何度か強調しながら語っていたこと、当時のアイドルの地位は高くなく、アイドル出身を公にひけらかすことは恥かしいようなことでもあったのではないかと推測できるわけですが、現在ではアイドルであることがステータスになってるような、そんなイメージで語ってるように見えました。

 

次に、少し話は有線大賞とそれますが、ライバルとされるAKBの不調っぷりです。坂道グループは乃木坂と欅坂の二つがそれぞれ独立して出場しているのに、AKB48はグループ全部のメンバーから寄せ集めで一つにごちゃまぜにならないと出られないというところに不安感を感じるわけです。

乃木坂や欅坂が躍進していくなかでAKB48がそのパイを奪われ衰退してしまい、女性アイドル界全体が縮小傾向にあっては本末転倒だと感じます。みんながみんな良くなることは理想ではありますが、生産性のある競争をしながら、自分たちのパイが大きくなるように活動を続けていって欲しいところです。

要するにAKB48グループを衰退どころか言葉は悪いですが駆逐させてしまうと、かえって全体的な利益を損なうのではないかという懸念が少しあります。事実としてAKB以外に姉妹グループは殆どテレビで見られなくなってしまいました。かつてはAKBで3グループ、坂道で1グループくらいが相場でしたが、今は坂道で2グループ、AKBで1グループと全体としては勢いがなくなってしまっています。こうしたし烈な競争の中で全体が縮小することがないように考えていきたいですね。

 

有線大賞の乃木坂ちゃんに戻りますが、インフルエンサーをいつものように披露していました。しかし、会場が東京プリンスホテルの豪華で綺麗な場所ですので、心なしかいつもより緊張しているように見えました。このインフルエンサーという楽曲は、何かに対するリアクション系の楽曲に見えるので、対抗となる騒がしい何かがないと映えません。今回は会場がその役割を果たしていて?落ち着いたトーンのインフルエンサーのぶんぶんダンスがより一層際立ったような気もしましたが、まだまだこのダンスは難しいので気分よく踊れているようには見えなかったところが少し心残りです。

 

それにしてもテレビのライブで乃木坂ちゃんを見るのは心が洗われたような気がすると同時に、何度も見すぎていて、初心の人の視点、気分のようなものが想像できなくなってしまってることに幾分かの切なさを感じます。乃木坂46とは未来への希望、そんな大袈裟な言説もありますが、私は乃木坂46とは悲劇であるのだと理解しています。そんなわけで?今後も乃木坂46を見続けていく決意をして今回は終わろうかと思います。

ジルさんの乃木坂46な日々 vol9

 

お久しぶりです。

 

東京ドームの2日目に参戦したのですが、アリーナ席で見た感動から数週間、レポートを書こうと思ってるうちに忘れてしまいました。

この思いは自分の胸の内にしまっておくとして、今日からは少しずつでも毎日の乃木坂46ファン活動を記していきたいと思います。

 

東京ドームについて、簡単にだけ書いておくとすれば、命は美しいの時の演出や、最初の警備員と女子高生のダンスなど、普段は見られない特別な演出が面白いように思いました。

乃木坂46にとって東京ドームは通過点にすぎません。第一章の終わりだなんていう人もいますが、私から見れば第一楽章すら始まってなどいない。乃木坂46とは、いまだその完成形が見えない進化のただただ途中にあり、終わりのない未来へと突き進んでいるのみであるように見えます。

 

さて、当面の私の現場活動の予定は12月15日の神戸アンダラと年明けの1月6日の大阪全国握手会になります。そちらはなるべくレポートを書く予定ですのでお楽しみに。

羨望のエクリチュール 乃木坂46アンダーライブ九州シリーズ 鹿児島公演の感想

 こんばんわ。今回は2017アンダーライブ鹿児島公演の感想を書きたいと思います。タイトルのエクリチュールとは、ここでは表現の形式だとか表現の技法みたいな感じの意味です。

 

さて、「自由の彼方」から始まり「希望の光」で終わる今回のアンダーライブですが、一言で述べれば、疾走感よりも痛烈さよりも爽快感がありましたね。何かが始まりそうな、そんなプロローグ的な公演でした。座長の樋口さんも、この公演はプロローグ的であることを発言していましたね。

 そんな伝説的…ではないにしろ、まさしく最後には希望が見えてくるような九州シリーズ。全7公演の中での6公演目たる鹿児島公演を急ぎ足で振り返ります。

 

まず初めに私が思ったのは、乃木坂ちゃんって小さい。ちっさ、うわ…ちいせえ。ちっちゃ。まじでちいせえ。ちっちぇえええええええ。うひょおおおお。うひょおおおおおお。ことこおおおおお。

はい、最後は叫んでしまったわけですが、本当に乃木坂ちゃんは思ったよりも想像以上に小さかったです。存在がとか、振る舞いがとかではなく、ただ単に縮尺が小さい。小さくて可愛い。

 

ところで、本題に戻りますが、オープニングではなにやらオリジナル要素があったようで、暗黙の中でしっとりとした様相のダンスが始まります。そして次に乃木坂ちゃんが全員で現れて「自由の彼方」を披露するわけです。

そんな最初のシーンを私は見ていました。確かに私は観客として見ていました。観客というのは元来は舞台の演出装置の一つであった向きもあるのかもしれませんが、現代では受容者としてのいわば置物にすぎませんよね。観客という固定された枠組み、鳥かごのようなイメージの空間で、鳥たちが羽ばたいていくのを見つめます。

するといつのまにかあることに気がつきます。もしかして我々ファンが飛び立つことを期待されていて、彼女自身らがそれを見守り支える鳥かご側になっているのだと。それは意図したものでもあるのだと思いますが、彼女らの立ち位置、すなわちアンダーであるという状況が、より彼女たちに対する見方を固定的な枠組みへと追いやるように見えました。

そこで私たち観客は思い思いの気持ちを叫びます。高らかに、明らかに、すこぶる様態で、気高く、物々しく、仰々しいまでの眼差しで。私たちは彼女たちを見ているにすぎない鳥かごのような空間の一部であるはずでしたが、全体が全体として、澄み渡る空のように一体的な熱量を形成していました。

 

ああ、これがライブ、特にアンダーライブなんだなぁ。

 

そう思った瞬間でもありました。

私たちは、鳥たちのように飛び立っていった。どこへ行ったかって?それは遠い遠い世界へと没入、いや逃げたことだって言うかもしれません。だって現実的には現実を見ずに仮想空間にも似た熱気と一体感を楽しんでいるのですから。それにしても、乃木坂アンダーが、ライブで歌って踊って羽ばたいて飛び立つことが逃げることになるのか?それがこの曲で語られる「自由の彼方」であるのだろうか?

仮にそうだとしたら、そういう解釈を与える不届きものに言いたい。

 

君の劣等感を拒絶する。自由なるものは我々だ。私が、ここにいる自由だ。

 

そして高らかに宣言しておこう。歌詞から引用して宣言しよう。

 

いくら彼女らが、私たちがここで、この時、この場で言葉(思い)を投げかけても、空の鳥には聞こえないね。

アンダーライブ。いつか見た景色も、ここから見える景色も、多くのファンや多くの関係者に支えられて、ささやかな夢と今を感じている。

 

ここで言う空の鳥とは、自由の彼方にあるものの象徴なのか。はたまた、それは地に足のついた私たちから見える、去っていくべきもののイメージなのか。答えは皆さんの想像に任せますが、さてさて、ようやく始まったかに見えたアンダーライブ、殺伐とした雰囲気で続くのかと思いきや楽しい一面もあったので、簡単に紹介しますね。

 

MCパート

三期生の大園桃子ちゃんにボイスメッセージを送ったという二期生の伊藤純奈ちゃん、帰ってきた返信が、「いま乃木坂工事中の収録中だよー」とのこと。一期の斉藤優里ちゃんはそんな三期生ばかりにかまけてる純奈ちゃんに嫉妬。

⇒アンダーはライブで、三期生のエースはテレビ収録ですが微笑ましい話です。

 

一期生の齊藤ちはるちゃんが、鹿児島弁で挨拶しようとするも度忘れ。思い出そうにも思い出せないちはるちゃん…。

⇒か、かわいかー

 

二期生の伊藤かりんちゃんが、同じく二期生の北野日奈子ちゃんを諦めない的な熱いエール、もしかしてここで日奈子ちゃんは卒業発表なのかと会場はどよめき焦り立つもその後しばらくして日奈子ちゃんは復活。

⇒おれの、おれのおれのひなこー

 

今回はお休み気味の一期生アンダー筆頭格のひめたん

⇒ひめたーん、ぶーーーーむ!!ひめたんは永遠やでええええ

 

一期のマスコット的存在である和田まあやちゃんとまあやのお母さんの話。まあや母「むすめをこんなに早く手放すつもりはなかった」それを受けてまあやは皆さんにありがとう。ありがとう的なありがとうを。

⇒超絶可愛いまあやー!!

 

北野日奈子の復活と独白。日奈子曰く世界にやさしさを、人にやさしさを、モノにもやさしさを、上を見ても下を見てもやさしさにもやさしさを、やさしさを横から見るか?下から見るか?やさしさは世界を…、とにかくやさしさ、やさしさがアンダーを生んだが、アンダーはやさしすぎるが、やはりこの世界はやさしさで出来ているとかなんとか…。

⇒やさしい気持ちっていいよね。北野さんが喋っているときに誰一人として何も言わなかったのも良い。

 

まあやが指摘する、一期生で座長のひなちまはプレッシャーを感じている的な話。ひな「そんなこといわないのー」

⇒ひなだって、言いたいこと沢山あるよね…。

 

いかがですか?こうしたMCパートも生ライブの醍醐味であり楽しみですよね。合間合間にあるメンバーのわいわいしたトークには非常に癒されました。

 

それでは、次にこのライブの全体的な演出面について見てみます。

今回の鹿児島アンダラでは、舞台の横にぽつんと左右に2つの光のガーベラが置かれていました。そしてリアルなメンバーのストーリーとは別種の、舞台ならではの独白、そして表現の数々、いわば劇中劇が我々の前へと現れます。それは今の、というよりもこれまでのアンダーを象徴するかのような、なんとも切ない演出で、まるでマッチ売りの少女であるかのように物悲しく作られていました。

私が思ったのは、リアルなメンバーたちの思いからなるストーリーと、こうしてガーベラシーンの劇のように作られた形での舞台演出としてのストーリーが交錯していたことで、リアルと仮想の境が曖昧になっているということです。

この曖昧さというのは良い意味で私たちを一種の異世界と言うか別の空間へと導いてくれます。そこにいるはずの、マッチ売りの少女のような存在にすぎなかったアンダーメンバーが、くるみ割り人形のように立ち尽くしている私たちファンとの思いの交錯を経て、手が届きそうな身近な女の子たちから、我々の手の届かないどこかへと昇華されたように感じました。

メンバーの中にはアンダーという立ち位置であることに対して熱く語ってくれたり、休んでしまったことからへの復活について思いのたけを披露してくれたり、そうしたリアルな部分がアンダーライブの最大の魅力ではありますが、演出家によってつくられたであろうアンダーの演出劇を見ていると、正直なところこちらのほうが良い。

リアルな思いも大事だが、私たちファンはアイドルの人生をも応援している向きはあるが、やはりプロの興行であるから、劇中の劇に、演出の中に、自分の思いなりストーリーを重ね合わせるなり、リンクさせたほうが、より見栄えが良いですし、ステージとしての緊張感、協奏感、つまりシンフォリックな一体感も出るのではないかと思いました。

いずれにしても、メンバーたちのステージにかける熱意、力動が十分に見られたわけでとても満足のいく内容ではありました。

 

最後に、このライブのキーである「僕たちの光」の一節を見ながら終わりたいと思います。

 

太陽眺める度羨ましくなるんだ

どんな時もまぶしく輝き続けること

僕には背丈ほどの影しか作れなくて

 

このあとは世界には何たらと続くのですが、私たちが、また彼女たちが、アンダラで手に入れたもの、手に入れたかった何かはこの歌詞にヒントがある気がします。

 私たちは彼女たちを確かに見ていた。そう、ずっと見ていたんです…。

 

おらちゃん「おらは知ってるよ」

おらちゃん「ジルさんは途中なんでここにいるんだろうって表情をしていたこと」

おらちゃん「でもメンバーがたまたま手を振ってくれて」

ジルさん「ああ、トロッコに載っていたメンバーと目が合った気もしたよ」

 

その時笑っていたんだ、彼女は私のほうをみて微笑んでいたんだ…。

 

おらちゃん「それではお聞きください」

 

ひと夏の長さより・・・

 

10月の桜島・・・海辺から眺めながらジルさんは家路についた。